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本田 宗一郎とは

   ↑  2012/08/12 (日)  カテゴリー: 日本人
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本田 宗一郎

本田 宗一郎(ほんだ そういちろう、1906年11月17日-1991年8月5日)
日本の実業家、技術者。本田技研工業「ホンダ」の創業者。

1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)で、
鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれる。

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略年譜


1913年(大正2年)光明村立山東尋常小学校(現:浜松市立光明小学校)に入学。
在校中に自動車を初めて見る、浜松町和地山練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を見学に行き、
飛行機を初めて見るなどの経験をする。

1922年(大正11年)高等小学校卒業、東京市本郷区湯島(現:東京都文京区湯島)の、
自動車修理工場「アート商会」(現:アート金属工業)に入社。(当時の表現で「丁稚奉公」)。

1928年(昭和3年)アート商会に6年勤務後、のれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立。
宗一郎ただ1人だけが社長の榊原郁三から、のれん分けを許された。

1936年(昭和11年)第1回全国自動車競走大会(多摩川スピードウェイ)に、
弟の弁二郎[1]とともに出場するが事故により負傷、リタイアを喫する。

1937年(昭和12年) 自動車修理工場事業を順調に拡大、
「東海精機重工業株式会社」(現:東海精機株式会社)の社長に就任。
しかし学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、
3年間金属工学の研究に費やす。

1942年(昭和17年)長男・博俊(元「無限」代表取締役)誕生。
トヨタが東海精機重工業に出資、自らは専務に退く。

1945年(昭和20年)三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。
所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、
「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年(昭和21年)10月、浜松市に本田技術研究所 (旧)設立。
39歳の宗一郎は所長に就任。

1948年(昭和23年)次男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。
同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。二輪車の研究を始める。

1949年(昭和24年)後にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、
共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。

1961年(昭和36年)藤沢とともに「作行会」という財団法人を設立。
若手研究者や学生に対して匿名で奨学金を交付した。

1973年(昭和48年)中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、
本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任と発表。研究所所長は続けた。

1989年(平成元年)- アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年(平成3年)8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で、
肝不全のため死去。84歳没。同日、正三位・勲一等旭日大綬章贈位。

2010年(平成22年)4月1日、出生地である静岡県浜松市天竜区に、
本田宗一郎ものづくり伝承館がオープン。
建物は国の登録有形文化財(建造物)に指定されている、
旧二俣町役場を改築したものである。

エピソード


小学生の頃、通信簿を親に見せ判子をもらう必要があった。
しかし見せられる成績ではないので、自作した偽造判子で乗り切ることにした。

それはよい手だと、次の学期には級友達にも求められ作ったが、
全て鏡文字となっていたため簡単に発覚した。

しかし、『本田』の文字が左右対称で、
鏡文字でも同じ文字になる当人だけは偽造が発覚しなかった。

終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、
製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして「遊んで」いたという。

しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に、
「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、
そこからオートバイ研究にのめりこむことになる。

本田宗一郎氏は経営難に陥った時、藤沢武夫の助言でマン島TTレースや、
F1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、
従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた。

南青山の本社ビルを新築する際、宗一郎は、「万が一地震が起こったときに、
割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい
」と指示し、
全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。

こんな気遣いを行う人は、めったにいないだろう。
本田宗一郎氏、藤沢武夫氏人間性が滲み出ているエピソードだ。

本田宗一郎氏は、大の別荘嫌いで
1年の内に1週間から10日しか住まない所に金を掛けるなんて実にバカらしい」と言い、
別荘を生涯所有しなかった。

逝去の2日前、さち夫人に、「自分を背負って歩いてくれ」と言い、
夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩いたという。
そして、「満足だった」という言葉を残し旅立った。

弔問時、遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大は、
「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ、涙したという。記事引用元:ウィキペディア
やりたいことをやれ/本田宗一郎

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